『架空論文』特設ページ

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作成日:2017/07/25 最終更新日:2017/11/21 かいたひと:松崎有理

『鼻行類』か、それともソーカル事件か。
松崎有理が月刊電子文芸雑誌『アレ!』で2011~2012年に連載していた「架空論文」シリーズが、『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』(光文社)としてついに書籍化されます。
(発売日は2017/10/20)
このページでは、刊行に先立ってその内容を随時公開していきます。

【もくじ】
「架空論文」サンプル公開いたします。(PDFあり)(2017/07/25更新)
第一章をまるまる試し読み(2017/09/29更新)
新刊プレゼント企画はじめました。(2017/10/05更新)
書誌情報・カバー・帯・もくじ公開します。(2017/10/07更新)
どんな本なのかてっとりばやく知りたいかたへ(2017/10/12更新)
現役研究者からご感想をいただきました(2017/11/21更新)

「架空論文」サンプル公開いたします。

こんな架空論文がほかに10本も入っています。でも、論文集ではなくて小説なんです。ラストにはおまけショートショートもついてますよ。

島弧西部古都市において特異的にみられる奇習“繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”は戦略的行動か? ——解析およびその意義の検証

ユーリー小松崎(比較民族文化研究所)、松崎有理(情報数理生命科学研究所)
(Received 7 Sep 2011, Final acceptance 12 Sep 2011)

はじめに

地図(京都)

図1A、島弧 および B、古都市 の位置。


 大陸東岸に位置する島弧の西部地域に千二百年の歴史をほこる古都市がある(図1)。当該地域には、その古さを反映してさまざまな特異的奇習がみられるが、近年になってようやく比較文化的研究がなされはじめたところだ(1)。なかでもよく知られたものが、つぎの奇習である(図2):
  1、客が主人の家をおとずれる。
  2、客が長居する。
  3、しびれをきらした主人は、「そろそろ帰ってほしい」の意味で「ぶぶ漬けいかがどす」と、いう。
  4、客は帰らない。
  5、3と4が無限に繰り返される。
「ぶぶ漬けいかがどす」ダイアグラム

図2、奇習「ぶぶ漬けいかがどす」ダイアグラム。


 ここでいうぶぶ漬け bubuzuke とはお茶漬け otyazuke という島弧伝統料理の別名である(2, 3;図3)。この古都市でのみ、前者の名でよばれる。
ぶぶ漬け説明イラスト

図3、ぶぶ漬け bubuzuke 図解。


 筆者らはこの奇習を“繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”と名づけ、繰り返しゲーム repeated game(4-6)の一種であるとしてその戦略的意義を解析することにした。この論文は、古都市の奇習についてゲーム理論の視点から論じた、世界ではじめての研究を報告するものである。

方法と結果

 “繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”の game tree を作成した(図4)。また、表1に利得 pay off マトリックスを示した。

繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”

図4、“繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム” における game tree。
player A = 客、player B = 主人。かっこ内の数値は順に、p = 客の利得、q = 主人の利得。


“繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム” の利得表
 表1における通常(上段)のばあい、player A =客の利得は繰り返し回数nが増大しても変化はない。客のなかでは、「訪問宅にいつづける快」と「まてどもまてどもぶぶ漬けが出てこない不快」とが相殺されるからである。
 いっぽうplayer B =主人の利得は繰り返し回数nが増大するにつれ減少する。客がなかなか帰ってくれないため不快さは増すばかりだからである。
 客にとっても主人にとっても最適な戦略、つまりナッシュ均衡 Nash equilibrium(7, 8)となるのは、node A0 において「ぶぶ漬けいかがどす」と主人にいわれる前に客が帰宅 Exit を選択したばあいである。

議論

 結果から疑問がひとつ生まれる。すなわち、この古都市において主人は、利得がマイナス無限大となる繰り返しゲームをなぜつづけるのか、である。
 筆者らは過去の研究(9)において、当該古都市にはいけず ikezu といわれる特異的戦略が存在することを報告した。いけずは意地悪 spite に似ているようだが、悪意がなく、積極的攻撃性もない。だから相手に気づかれないことすらある。相手への効果というよりは自問自答的ユーモアをたのしむ行動であるといえる。意地悪といけずのちがいを表2に示した。

いけずと意地悪の違い
 主人がいけずであるとき、表1下段にあるように、主人の利得はプラスとなる。「ぶぶ漬けいかがどす」と客にいうことで快を得るからである。このばあい、繰り返し回数nが増大するほど主人の利得も増大する。

結論

 “繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”の最終目的は、いけず戦略をとった主人が無限大の快感を得ることである。

謝辞

 
 本研究は、かけんひ、こと公的補助科学研究費(課題番号99083457)の助成を受けたものである。

文献

1, ユーリー小松崎(2010)島弧西部古都市において特異的にみられる奇習“一見さんお断り”の比較文化的意義 比較民族文化、45 112-123.
2, 小松左京(1963)お茶漬の味 SFマガジン1月号
3, 北大路魯山人(1932)鮪の茶漬け 星岡 昭和7年
4, Axelrod R. and Hamilton WD. (1981) The evolution of cooperation. Science 211, 1390-6.
5, Axelrod R. (1984) The Evolution of Cooperation. Basic Books, New York.
6, Axelrod R. (1997) The Complexity of Cooperation. Princeton University Press, Princeton, NJ.
7, Nash J. (1950) Equilibrium points in n-person games. Proceedings of the National Academy of Sciences 36(1):48-49.
8, Nash J. (1951) Non-Cooperative Games. The Annals of Mathematics 54(2):286-295.
9, 松崎有理・ユーリー小松崎(2011)島弧西部古都市における特異的適応戦略いけず ikezu の報告およびその進化的意義 数理と進化

 

PDF版もあります。以下からダウンロードできます:
小松崎ほか(2010)島弧西部古都市において特異的にみられる奇習“繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”は戦略的行動か? ——解析およびその意義の検証

 

第一章をまるまる試し読み

『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』(光文社)の冒頭から第一章の終わりまで、まるごと公開します。

・いまを去ること数年前。学術論文投稿不正にかんするあんな大事件が起こる前のお話です。いわば、近未来ならぬ近過去SF。
・本稿の内容は徹頭徹尾フィクションです。いかにほんとうっぽく書いてあろうとも、まずは疑ってかかることが肝要です。

コラム 論文の歴史

  はじめにことばがあった。 ――ヨハネによる福音書

 世界最古の論文の記録は、フランス東部のジュラ紀中期の地層から発見された一億六千万年前の化石(1)であるというのはまず確実につくり話である。それよりも多少は信頼できるものとして、紀元前三千年ごろのシュメール時代の粘土板に論文のような学術研究的記述がみられた(2)というが、これも論文とみなしてよいか微妙である。
 では論文の定義とはなんだろうか。その定義に照らして、論文のはじまりとはいったいいつなのだろうか。
 論文とは、筆者が発見した新しい知見を他人や後世に知らせるために書く文章である。
 外部に知らせることがなにより重要であるから、日記のように引き出しにしまったままではいけない。回覧、配布など可能なかぎりの手段を使ってひとにみせねば意味がない。
 したがって、論文のはじまりは印刷術や郵便制度、研究者の集会である学会などのはじまりと密接にからみあっている。印刷以前の時代、文字による主要な知識伝達手段のひとつは本を書写することであった。つまり手書きの写本である。当時は暗黙の了解として、本の写し手は自分の思いつきを注釈のかたちで書き入れることが許されていた。この部分がいわゆる、他人に伝えたい新奇な知見だ。もちろん、この方法での情報伝達はまことにゆっくりしたものであった。筆写の速度が遅いだけでなく、情報の受け手はいちどにひとりきりだからである。
 これより一歩進んだものが、現在も生き残っている手紙である。ルネサンス期に入るころ、知識人たちはサロンをつくってたがいの発見を書簡のかたちで回覧するようになった。みなで回し読みするため受け手の数はずっと増える。典型例は、十七世紀パリのマラン・メルセンヌ Marin Mersenne(一五八八 -一六四八)をハブとしたネットワークである。彼は学術研究の発展のためには研究者相互の交流が必要であると正しく理解していた。サポートしたおもな研究者はルネ・デカルト、ガリレオ・ガリレイ、ブレーズ・パスカル、ピエール・ド・フェルマーなどのそうそうたるメンバーであった。有名人はもちろん、地方住まいでひっそり活動しているひとたちをみつけだしては積極的に支援した。こういった学術サロンがのちに学会へ発展していく。
 写本への注釈、研究者間で回覧される手紙。これらが学術論文の祖型となった。研究者の数が増えて学会が誕生し、情報の速報性が重視されるようになってきたころ、印刷術と製紙技術も普及しはじめた。この新技術を取り入れて、世界初の学術雑誌が誕生する。フランスの Journal des Scavans とイギリスの Philosophical Transactions が一六六五年に創刊された(なんと後者は現在も存続)。こうして現代的な意味での雑誌掲載論文が出現したのであった。
 さてここで、印刷術の影の面も指摘しておかねばならない。プラトン(BC四二七 ~ BC三四七)はいった、思考を文字にすることは人間精神を堕落させると。本来、知とはみずから熟考し、生身の相手と議論をして磨かれていくものであった。しかし印刷術登場以後はまず印刷することを第一に考えるようになった。Publish or Perish 主義、すなわち「出版できぬ者は去れ」という考え方の台頭である。
 大量の出版物があふれる現代、われわれの精神は堕落しただろうか。

文献
1、Jurassic Paper: The oldest research article has found in French mountain as a fossil. The Daily Gossips 1 Apr, 2011
2、The oldest research paper is not a paper, but a clay tablet. Mesopotamian Archaeology 44(2), 589-663. 2010

参考図書
『紙と羊皮紙・写本の社会史』箕輪成男(二〇〇四)
『歴史としての学問』中山茂(一九七四)
『歴史のなかの科学コミュニケーション』ヴィッカリー(二〇〇二、原書二〇〇〇)

第一章 おしゃべり女 Celle qui parle trop

 そのニュースはひっそりと報道され、またたく間に忘れ去られた。
 だが事態を重くみた者たちがほんのすこしだけ存在した。

 ユーリー小松崎の家にテレビはないのだけれど、例のニュースが流されたときたまたま蛸足大学の文系食堂でとても遅い昼食をとっていたのがさいわいした。いや災いだったかもしれない。
「超高学歴独身男、高層ビルから油揚げをばらまく」
 なんだそりゃ。小松崎はカフェテリアで選んだ納豆メインの食事をとる手を止め、テレビ画面のテロップをみつめた。なお彼はロシア系クォーターだが生まれも育ちも日本なので、金髪碧眼の外見ながらあらゆる和食に抵抗がない。
 型遅れの大型テレビは食堂の西側の壁にかけられている。画面の下には、いたずらずきな学生のしわざだろうか、「こいつは地上波アナログさいごの砦」と書かれた紙片がセロハンテープで留められていた。昼食時間帯をおおはばにすぎているため、小松崎含めなんにんかの教官や大学院生たちがばらばらに白い四人がけテーブルにつき、冷めかけた料理をつつきながら午後のバラエティ番組をぼんやりながめていたところであった。
 画面のなかでは、麻のジャケットをぴしりと羽織ったキャスターがあかるい声で原稿を読みあげている。そのいでたちもことばのアクセントも、彼の背後の撮影用セットさえも、最先端の都会の匂いを感じさせた。「さきほど、都心の六十階建てビルの最上階から大量の油揚げがばらまかれるという事件が発生しました。直下の路面にちらばった油揚げのため一時的に大渋滞となるも、現在は解消。さいわい怪我人はありませんでした」
 現場の映像に切り替わる。ビル管理会社の職員だろうか、青い制服たちが手に手にちりとりと火ばさみを持って道路上や植え込みに落ちた油揚げをいちまいいちまい拾い集めている。なんとも暑くてたいへんな作業にみえた。ここ北の街よりひと足先に、現地は夏本番だ。
 映像はほんの数秒で終わった。都会的キャスターがふたたびしゃべり出す。「事件の犯人は現行犯で逮捕されました。三十九歳男、大学ではポストドクトラルフェロー(*1)という職務についているとのことです。つまり、大学の研究員ですね」
 むう、ポスドクか。しかも四十代に突入する寸前。
 小松崎は箸を握ったまま画面を凝視した。犯行の動機がかいまみえた気がした。いや事情というべきか。
「なんだあ、それ。なんで油揚げなんだよ。鳶愛好家か、それとも狐か」
 ハンチングをかぶったコメンテーターがおちゃらけたつっこみを入れる。
「食べものをそまつにしちゃいけませんねえ。お豆腐屋さんに失礼ですよ」
 と、扇を使いつつ正論を吐くのは和服を着た文化人風のゲストだ。
 そのあと天気予報を伝えてニュースの時間は終了し、バラエティが再開された。小松崎は昼食を中断したまましばらく番組をみていたが、事件についてさらなる情報は流れないようだった。
 しかたない、自分で調べるか。
 メラミン製のそっけない椀からさいごの飯粒ひとつまで拾ってきれいにすると、ごちそうさま、と手をあわせて唱えた。食べものをそまつにしちゃいけないのはたしかだ。箸使いも食後のあいさつも、やはり金髪碧眼の容姿ながらおそろしく日本人じみたメンタルを持つロシア人ハーフの母から幼少時より仕込まれていた。
 空いた食器を下膳口に置いて文食をあとにし、附属図書館むかいに建つ文学部棟へ戻っていった。彼は弱冠二十九歳にして蛸足大学文学部心理学科の助教であった。調査するなら、つてはある。


*1 ポストドクトラルフェロー postdoctoral fellow 博士号取得済研究員とも。略称はポスドク。大学院で通常五年、最長十年かけて博士号を取得したあとにつく任期つき研究職。任期は三年から五年で契約更新なし、というのがふつう。よって、つぎは助教など常勤職をめざすのだがせまき門。どのくらいせまき門かというと、二〇一二年の文科省調査によれば全ポスドクのうち次年度に大学教官となったのはわずか八パーセント弱。博士号取得者の行く末をさらに知りたいかたは「博士が100人いる村」で検索されたし。

 数日におよぶ調査の結果、口の重い関係者たちからなんとかききだせた事実はつぎのようなものだった。
・犯人の経歴。地方の某三流大学を留年のすえ卒業後、中央の某二流大学の大学院に進学。年限ぎりぎり、すなわち十年かけて博士号を取得。そののち某四流大学でポスドクとなる。任期終了後、現在勤務する某五流大学に移籍し、ここでもポスドク。ことしで任期が切れる。
・犯人のひととなり。まじめで無口、コミュニケーションが苦手。発想型ではなく努力型。ひとりでこつこつ積みあげるのを好む。なお独身。恋人はいないらしい。
・犯人の専門。生物分類学という時代に取り残された博物学的分野。研究費も研究者のポストも縮小ぎみ。
・犯人は事件の直前、ほぼ同じ内容の論文を二十本、別々のものとして複数の学術雑誌に投稿(*2)していた。二重投稿どころか超多重投稿である。この不正(*3)はさすがに明るみに出た。これが油揚げばらまき事件の引き金と思われる。すなわち自暴自棄だ。
・同研究室の助教の談話。「ええ、雑誌からの電話はぼくがとったんです。かけてきた編集員が、それはもうただならぬ口調であいつの名前をいうんで。それで、急いで彼に受話器をわたすと、あいつの顔みるみる白くなっていって。電話のあと、まるいちにち姿がみえませんでした。やつが大学に出てこないのは日常茶飯事なのでそのときはあまり気にかけていませんでしたが、まさかあんなはた迷惑な事件を起こすとは。そんな大胆な人間じゃなかったはずですけどねえ」
 例のニュース映像も入手した。関係者のひとりが携帯電話でテレビ画面を動画撮影したものだから画質はひどく粗いが、これがあれば記憶だけを頼りとせずにすむ。小松崎はありがたく動画のコピーをいただいてきた。
 文学部棟にある自身の研究室で、小松崎はもらった動画を再生していた。この若さで、しかもまだ助教の立場でせまいながらも個室を使えるのはそうとうに恵まれているという自覚はあった。書き物机の上で動画を流しているマッキントッシュも、自力で獲得したかけんひ(*4)で購入したものだ。いまのところ卒論を指導すべき学生がおらず担当講義もさほど多くないため、平日の昼ひなかに自分の研究の時間(*5)が持てる。これもまた恵まれているとわかっていた。研究者であるのに研究する時間がとれない教官は、とくに地方の小さな大学には多いのである。その点、蛸足大学は北部地域の中心的学術拠点であり、研究するには最高クラスの環境といえた。
 光る画面をみつめながら、小松崎は寒気をおぼえていた。いま、学術の世界ではとんでもない事態が進行しているのかもしれない。
 検証せねば。それが自分の専門分野の役割だ。
 動画を止め、卓上の電話に手を伸ばした。電話器は大学のものなので、ラベルライターのよそよそしい書体が所属を表している。
  文学部心理学科 メタ研究心理学研究室
 彼の専門とは、研究者心理の研究である。


*2 論文の投稿 研究のための資金すなわち研究費は税金から交付されるケースが多い。つまり、もとは国民の金である。よって研究の成果は国民の共有財産とするべく公開されねばならない。もっとも重要な発表手段は論文を執筆し、学術雑誌に投稿して掲載されることである。ほかには著作の出版、研究者たちの集会である学会での発表などがあるが、論文ほどは重視されない。
*3 論文投稿における不正 おもな不正の種類はつぎのとおり。虚偽のデータや記述を入れる(捏造・改竄)、他人の論文を写す(盗用・剽窃)、掲載ずみの論文と同じ内容のものをほかの雑誌に投稿する(二重投稿)、研究にたずさわったひとを正確に報告しない(不適切なオーサーシップ)など。刑事罰を科されるわけではないが、研究コミュニティ内では白眼視される。悪質な不正のばあい研究者生命が終わる。
*4 かけんひ 公的補助科学研究費の略称。政府が研究用に交付する競争的資金で、註2にあるとおりもとは税金。よってだれでも申請できるわけではなく、大学や国立研究機関に所属する研究者にかぎられる。研究の規模や申請する研究者の年齢により種目と呼ばれるさまざまな金額の枠がある。毎年募集があるが審査はきびしく、採択率は三割以下。学術振興会ホームページには「わたしとかけんひ」というすてきなタイトルのエッセイが連載されており研究者たちのかけんひへの熱き(片)思いを知ることができる。なお「不採用通知はがきを五枚ためると翌年度には採用となる」という噂は完全な都市伝説なので期待してはならない。
*5 研究者の研究時間 文部科学省の科学技術・学術政策研究所による調査「大学等教員の職務活動の変化」によれば、二〇一三年の大学等教員の活動時間のうち研究が占める割合は平均で三十五パーセントであり、以前の調査結果と比較して年々減少傾向にある。大学の種類別では国立のほうが私立より研究時間が多く、研究者の職位別にみると助教がもっとも研究時間をとりやすいとわかる。なお研究以外の業務とは「教育」「社会サービス(教育・研究・医療など)」「その他学内事務等」。

 呼び出し音が十一回鳴ったあと、相手が電話に出た。
「はい。松崎有理」
「あっ松崎さん。小松崎です、ちょっとごぶさたしてました」
「ああなんだユーリーか。よかった、編集者かと思ってどきどきした。ほらいま午後二時でしょ、ちょうどいまごろかけてくるんだよね」
 ふたりが知り合ったのは五年ほど前、松崎がまだ蛸足大学の医学系研究所で実験の仕事をしていたころだった。きっかけは、名前が似ている。ただそれだけである。歳が十近く離れているし、小松崎は身長百八十五センチ体重七十五キロのロシア的長身、かたや松崎のほうは靴がいわゆるシンデレラサイズであとは推して知るべしという対照的な容姿なのだが、クラシック音楽鑑賞や四コマまんが作成など趣味嗜好にはいくつも共通点があった。なにを思ったかある日とつぜん松崎が研究所を退職し、どういうわけか理系女子作家に転身して北の街から中央に引っ越したあとでも親交はつづいている。名前が似ているだけなのになんだか他人のような気がしないのである、おたがいに。
「ところでなんの用。あさって締切で、きっついんだけど」
 もうかっているかどうかはさておいて、かけだし作家のわりに仕事量だけは一人前らしい。たんに執筆速度が遅いだけかもしれないが。なにせかけだしだから。
「だいじな話なんです。だから緊急。それに、おもしろいですよ」
「へえ。どんな」
 松崎はおもしろい話に弱いのである。
「高齢ポスドクがビルから油揚げをばらまいた事件です。数日前にテレビのニュースでやってたんですけど、みましたか」
「みるわけないでしょ」
 松崎の家にもテレビはない。とある高名なホラー作家が「小説を書くならテレビなど捨てろ」といっていたのを真に受けて、転居を機に処分したのだという。そもそも彼女はものを捨てるのがだいすきである。おかげで自宅には家具さえほとんどないらしい。
 小松崎は事件の顛末といま得ている内部情報を話す。松崎はふんふんときく。まぢかにせまった締切は忘れ去ったようだ。
「ねえ。ひとつ質問があるんだけど」彼女は質問するのもだいすきである。
「なんでしょう」
「くだんの油揚げポスドクの超多重投稿って、具体的にどんなことしたの」
 渦中のポスドクになんて名前をつけるんだ。小松崎は受話器にむかって苦笑する。「その、油揚げポスドクの専門は希少生物ホラホラ属の分類だっていいましたよね」
「うん」
「新種の生物をみつけたら、記載論文ってのを書かなきゃならないことは知ってますよね」
「もちろん」彼女の専門は生物学である。「写真とか図とか載っけて、体のサイズとか特徴とかこまごま書いて、属名と種小名の二名法でラテン語の学名をつけるやつね。おかげで学生時代はラテン語やらされたよ、あの死語が学術の共通語(*6)から転落して何世紀も経つのに」
 小松崎は相手の郷愁を多分に含む愚痴を無視した。「ホラホラ属ってのは、どんな生物か知ってますか」
「いや、ぜんぜん。はじめてきいた」
「ぼくも知りませんでした。なにせ世界中で研究者が十人もいないっていう超マイナーな分類群らしくって。調べてみたところ、深海底の熱水噴出孔付近に生息する単細胞の微生物で、化学合成によりエネルギーを得ているそうです。その形状がちょっと変わってて、細胞のかたちが三角形をしてるんですよ」
「稲垣足穂は月のかたちが三角形だって主張してたな」
 小松崎は相手の振ってくるコネタを無視した。「油揚げポスドクは苦労のすえ、四角形の新種を発見しました。これについてはりっぱな業績です、人類の進歩に貢献するかどうかはともかく」
「おおかたの研究はなんの役にも立たないもんだよ。あなた文学部にいるんだからよくわかるでしょ」
 相手のいったことは真実だったが、小松崎はまたも無視した。「彼は発見した新種について記載論文を書き、分類学の専門雑誌に投稿して受理された。ここまではいい。だがインパクトファクター(*7)のそこそこ高い中堅雑誌に掲載がきまったことで、おそらく魔がさしたのです」
 こんな業績がもっとほしい。できるだけたくさん。多ければ多いほどよい。
 二匹目の泥鰌が狙えたら。できれば三匹目、四匹目も。その先もずっと、n匹目まで。かっこnは自然数かっことじ。
「n匹目の泥鰌をひたすら狙いつづけるのは出版界の定石のようだけどね」
 小松崎は相手が披露してくる豆知識を無視した。「彼は多重投稿を指摘されないよう、いちおう予防線らしきものを張りました。論文の内容はそっくりなのですけれど、細胞の形態を五角形、六角形、七角形、中略、二十三角形として合計二十本の論文を複製したのです」
「二十三角形って、それもう多角形じゃなくてほぼ円じゃないの」
 つっこむ場所はそこじゃないだろう。「こうして投稿されたコピー論文のほとんどがあっさり査読(*8)を通過しました。しかし、さいごには足がついたのですよ。なにせ分類学分野はせまい世界です。投稿できる専門雑誌の数はかぎられています。査読のできる研究者の人数もしかり。ある査読者が内容の重複に気づいて、あとは芋づる式に。なにせ学名がみな同じでしたし」
「ばかだなあ」と、ようやくふつうの感想が返ってきたと思ったら。「種小名を角数にちなんだものにすれば、ちがう学名をつけるなんてかんたんだったのに」
 そっちかい。「たぶん、ラテン語の数詞をそんなにたくさんは知らなかったんでしょう」
「多重投稿ってだけでなく、捏造でもあるのかな。細胞のかたちをごまかして報告してるわけだから。まあ不正の分類はともかくとして、いずれにせよ、おろかだ」そういってから、電話のむこうは黙った。
 しばしのち。「ねえ。この事件ってさ、すっごくあほらしくて世間的にはとるに足りないようでいて、じつはおそろしいよね」
「そのとおり」よかった、かんじんなところは察しがいい。さすが大学ぐらしが長かっただけのことはある。「テレビのひとたちは油揚げにばっかりつっこんでましたが、真に憂慮すべきポイントはそこじゃないんだ」
 小松崎の頭のなかをいくつもの断片的な考えがかけめぐる。ポスドク。任期つき。同一研究機関での任期の更新は通常、ない。四十歳は常勤職につくためのデッドラインとされる。あとがない。業績がほしい。業績がないと就職に不利だしかけんひもとれない。業績とはすなわち論文、しかもなるだけインパクトのあるやつ。研究者は研究が三度の飯よりもすき。研究しなければ生きている意味がない。なんとしても、研究者としての身分を手放したくない。給与がなくたっていい、そのために研究生や無給研究員(*9)というポストがある。でもできれば給与はほしいのが人情。できれば結婚したいし家だって買いたい。そのほか、そのほか。
 ああだめだ、やっぱりうまくまとまらない。そんなとき研究者がとる方法といえば。
「それでですね。この問題を世に問うために、ひとつ実験をやってみようと思うんです。松崎さん、協力してもらえますか」
「どんな」彼女は実験もだいすきである。もと実験屋だけに。
「嘘の論文をでっちあげて、投稿してみようと思うんですよ」
「ははあ。ソーカル事件(*10)ね」
 そうくると思った。「ちょっとちがいます。ソーカルさんのおもな目的は、わかりもしない数式をふりまわすポストモダニストたちを嘘論文でおちょくることでした。そして彼のばあいはたんなるいたずらでしたが、ぼくはかけんひを投入した研究にしようと考えています。油揚げポスドクのような不正を実験的に再現して、どこに問題があるのか洗い出すんです。あの事件は研究者たちへの警告なんだとぼくは受けとめています。これまで研究者は性善説を前提に活動してきました。だがいま、その前提がゆらぎはじめている」
 研究者性善説とはメタ研究心理学用語のひとつで、すべての研究者は研究において善意にもとづいて行動し、私利私欲による嘘やごまかしはしないとする立場である。たとえば完全ボランティアである査読制度の実施はこの説に依拠している。経済学でいう超合理的人間ことホモ・エコノミクスと同じくらい非現実的との揶揄もあるが、小松崎は大学院での研究開始当初から一貫してこの考えを支持しつづけてきた。
 甘すぎるかもしれない、理想主義的にすぎるかもしれない。だが理想だからこそだいじにしたい。だって、みんな研究したいから、三度の飯より研究がすきだから研究者になったんじゃないか。
 自分はなんのために研究者に、とりわけメタ研究心理学者になったのか。学術研究の理想を守るためではないのか。
「ここでなにか手を打たないと、学術の世界に未来はないかもしれません」
 北の街と中央を結ぶ電話のあいだでしばらく沈黙がただよった。
 そののち松崎から。「あなたひょっとして、論文警察みたいなことやろうっての」
 へえ、こんどはそうきたか。「ううん、ちがうかなあ」
 論文警察。学術界に流布する有名な都市伝説のひとつである。
 あらわれるときは、いつも黒服の二人組であるという。黒いサングラスをかけ、「出すか、出されるか」と繰り返し唱えるだけでほかのことばはいっさい発しない。この台詞は英語圏のばあい「Publish or Perish」であるそうだ。もとは税金である研究費や給与を受けとりながら論文を書く義務を怠っている研究者や、書いたはいいが論文執筆における不正行為を犯した研究者を捕え、黒塗りの乗用車に押しこんで連れ去っていく。拉致された研究者は世にもはずかしい制裁を受けるのだといわれている。
 世にもはずかしい制裁とは。客を満載した屋形船のへさきで出身高校の校歌を裏声でうたわされるとか、巨大ターミナル駅前で白衣にめがね、片手に試験管を持った姿で若い異性に「しあわせですか」とつぎつぎ声をかけつづけねばならないとか。額に「出すか 出されるか」と入れ墨されてしまうともいわれる。一生消えない恥辱のあかしである。
「論文警察って、なまはげみたいだよね。論文書かない子はいねが、ずるして論文書く子はいねが」などと松崎はとぼけた感想を述べる。中央に越してから日が浅いので彼女の思考回路はいまだ北方仕様である。
「ぼくの目的は制裁じゃありません。実験を通して問題点をあきらかにしたいだけですよ。研究者個人を叩いてどうするんです、かれらはある意味被害者なのに」
 もちろん研究者自身の能力のなさ、心の弱さも一因だろう。しかし真の原因はもっと深く、もっと巨大で、もっと捕えがたいもののようだ。
 松崎がぼやく。「そういうまじめなの、苦手なんだけど」
「あなたはいつものように嘘八百考えてくれりゃいいんです。そうだなあ、ちょっと調べれば嘘だってわかるくらいのさじ加減で。それが査読を通って受理されるかどうか、という実験ですよ。なにせ今回の事件では二十本もの論文の捏造がみすごされる寸前でしたから、まずは査読制度がターゲットです。とりあえず一本、書いてみてください」
「その研究計画、すっごい思いつきっぽい」
「研究のはじまりなんていつもそんなもんでしょう。どれだけ試行錯誤を繰り返しても、さいごに論文としてまとめるときかたちになっていればいい。そうでしょう」
 相手はそれで納得したようだった。やはり大学ぐらしが長かっただけのことはある。「内容についてリクエストは。嘘八百っていってもばくぜんとしてるからさ」
「そうですねえ。ソーカルさんにならって理論系がいいんじゃないでしょうか。あ、いま流行りのゲーム理論はどうでしょう。ナッシュ均衡なんてキーワード使ってみると学術誌編集者たちに受けがよさそうですよ」
「なるほど、なるほど」それから電話のむこうでなにやらぶちぶちとつぶやく声がして。「了解。嘘論文のアイデアはあとでメールする。それとひとつ、気になることが」
「なんでしょう」
「あなた論文書くの、得意だったっけ」
「いえ。ぜんぜん」研究を進めることは心躍る体験だが、それをまとめる作業となると苦痛でしかたない。もっとも、論文執筆を苦手とする研究者は小松崎だけではなかった。だからこそ論文警察の都市伝説が流布しているのである。
「じゃあ。内容以前に形式がなってない、って掲載拒否されることもあるんじゃないの」
「だいじょうぶです。その点についてはいい方法を考えています」
「どんな」
「専門家にまかせるんですよ」
 論文執筆の苦手な研究者たちには救世主が存在した。ただし有料の。


*6 学術の共通語 十八世紀ごろからラテン語の使用はすたれはじめ、現在では英語に切り替わっている。英語を母語とする者が有利となるので、話者のいない死語であるラテン語が共通語であった時代とくらべて不公平が生じる。たとえば、論文の査読において非英語圏の著者はリジェクトされやすいというバイアスがある。Lee, Carole J. et al. (2013) Bias in peer review. Journal of the American Society for Information Science and Technology 64 (1) 2-17. が Language bias として指摘している。
*7 インパクトファクター impact factor 被引用指数。ある学術雑誌に掲載された論文が、ほかの論文にどのくらいひんぱんに引用されているかを示す数字。つまりその雑誌がどれだけ人気があるかを表しており、近年では格付け数値化している。
*8 査読 peer review 学術雑誌に投稿された論文を第三者が読み、内容が学術的に正しくかつ雑誌掲載に値するかどうか審査すること。査読にあたるのは投稿論文内容と専門を同じくする研究者で、通常は二名、ときに三名以上が雑誌編集部から指名される。公平を期すため査読者は原則、匿名。査読者は論文の評価とその理由を詳細なレポートにする。査読レポートは論文著者にも届き、コメントにしたがって論文は修正される。レポートと修正原稿のやりとりが数回つづくこともある。つまり査読とはたんなる合否判定ではなく、他人の目を通すことで論文をよりよくする作業でもある。このように査読は時間と神経を使うたいへんな作業でしかも無報酬だが、この手続きによりいいかげんな研究が世に出ることを防いでいる。いわば学術の防波堤。
*9 研究生、無給研究員 前者は学部ないし大学院を卒業したあと、ひきつづき学生と同じ身分で大学に在籍すること。よって入学金や授業料を払わねばならない。後者は「机だけ研究員」とも呼ばれ、研究員という身分であるが給金はいっさいない。なぜこういった「身分」が必要かといえば、大学や研究機関を離れてしまうと実験設備や図書館を利用できず、研究をつづけることが事実上不可能になるから。また所属機関がないと投稿論文も受理されにくくなるという裏事情もある。
*10 ソーカル事件 一九九四年。ニューヨーク大学の物理学教授アラン・ソーカルは一部の社会系・人文系研究者たちがわかりもしない数式や科学用語を飾りのように濫用するのをいまいましく思っていた。その傾向を批判するため、数式をちりばめた嘘論文を書いて人文系学術雑誌に投稿。嘘論文は掲載され絶賛された。そのあとでソーカルは「あれ、でたらめだよ」(大意)と公表、大騒ぎのすえ掲載誌は九六年のイグノーベル文学賞を受賞した。

 中央への長距離電話が終わったあと、つぎに小松崎は市内の番号にかけた。呼び出し音が四回鳴ってから、録音された音声が流れはじめた。深いバリトンだ。
「はい。こちらトキトー、代書屋です。よりよい雑誌により早く、あなたの論文投稿をかんぺきにサポート。見積もり無料、代金は安心の完全あと払い制。上を狙うなら論文執筆代行業のパイオニア、トキトーをご指名ください。それではご用件をどうぞ」
 電子音。
「トキトーさん、ごぶさたしてます。蛸足大学文学部メタ研究心理学のユーリー小松崎です。先日投稿した論文『研究者性善説論考――研究者がたがいにまちがいを正しあう美風の起こりと発展』の件ではほんとうにお世話になりました。じつはですね、今回は」
 小松崎は受話器にむけて嘘論文投稿計画の概要を話す。通常の代書屋への依頼のように生データをわたすわけでもなく、必須のゴールであるはずの学術誌掲載すら目指していない。おそろしく変則的だが、料金さえきちんと払えば受けてもらえるだろう。なにせこれは投稿不正でもいたずらでもない、れっきとした研究なのだから。そしてあちらは商売なのだから。

 翌日の深夜、研究室のマッキントッシュに松崎からのメールがとどいた。以前は小鳥の声とともに起きる超朝型だったのに、過労で体をこわしてからというものすっかり夜型になったらしい。もっとも、小松崎だってこんな時間まで職場にいるのだからひとのことはいえないが。
 件名は「不完全燃焼日記」。
 なんだ、頼んでいた嘘論文のアイデアじゃないのか。開いてみると本文はなく、テキストファイルが添付されていた。こんなものだ。

  某月某日 西の古都にて
 世界中のほぼすべての地域、文化において飲食を勧めることとは歓迎の意思表示である。主人は勧め、客はいただく。飲食物を介した善意の交換である。だが唯一の例外がここ西の古都でみられる。
 筆者は本日、取材のためにこの街をおとずれた。人口の多いりっぱな都会であるのに地下鉄網がろくに整備されていないだとかバスはわかりにくくて不便であるとか道路がせまくてほこりっぽいだとかの不満はひとまず措く。取材にうかがったお宅(個人のお住まいであった)で小半時ほどインタビューをして、ひとくぎりついたところで主人がこんなことをいった。
「きょうはほんに暑いどすなあ。アイスコーヒーでもいかがどす」
 筆者は無類のコーヒーずきであるし、喉がかわいていたこともあってこの申し出はすなおにうれしかったので礼をいい、そのまま座して待った。
「きょうはほんに暑いどすなあ。アイスコーヒーでもいかがどす」
 主人はまた同じことをいう。おねがいします、と返して筆者は待つ。ところがいっこうに飲み物は出てこない。
 おかしいな。さすがにいぶかしく思って壁の時計などながめていると、主人がまた。
「きょうはほんに暑いどすなあ。アイスコーヒーでもいかがどす」
 筆者はようやく気づいたのであった。いま自分は名高い古都の「いけず」風習、すなわち「ぶぶ漬けいかがどす伝説」の実物に立ち会っているのだと。
 そのあと筆者がそそくさと退出したのはいうまでもない。(了)

 うん、日記だな。まぎれもない日記のいちにちぶんだ。しかし彼女はなぜこんなものを送ってきたのだろう。
 小松崎が首をひねっていると、ぴほーん、とまたメールの着信音が鳴った。これも松崎からで、件名は「架空論文」だった。
 おお、きたきた。なるほどね、架空論文とはいいプロジェクト名だ。
 メールをあける。嘘論文のタイトルが冒頭にかかげられていた。それをみて小松崎はまず絶句し、つぎに笑い、そしてさきの日記メールが必須の前振りであったことを理解した。
 つづいて、箇条書きで論旨。内容は小松崎のリクエストに沿ったものであった。そしてデータやグラフ、引用文献リストまでがぬかりなく添付されている。すべて一見もっともらしいが、でっちあげだ。しかし相互に矛盾はない。嘘なのだが、その嘘の世界に破綻はなかった。
 このまま代書屋に送ればすんなり論文にしあげてくれそうだな。
 トキトーという男の腕はたしかだ、ただし報酬は高い。とくに今回は通常の代筆依頼ではないから特別料金を請求されるかもしれない。若手研究スタートアップ(*11)枠で獲得したかけんひがいつまでもつか心もとなかった。
 松崎からのメールに説明を加筆し、代書屋のアドレスに転送する。こうして架空論文投稿実験がはじまった。


*11 若手研究スタートアップ かけんひの種目のひとつ。通常のかけんひの公募時期は秋であるがこの枠のみ春に募集がかけられる。応募できるのはその春に研究職として採用されたばかりの者、海外からの帰国組や産休復帰組など秋のかけんひ募集に間に合わなかった研究者。かけんひ全種目のなかでこの枠の交付金額がいちばんすくない。なお現在は名称が変更されている。

【架空論文『ぶぶ漬け』】

 代書屋トキトーの手を経て、架空論文が中堅どころの専門誌『数理と進化』に投稿されてからひと月が経過した。北の街もすっかり夏である。
 呼び出し音が響く。五回。六回。小松崎は片手に受話器を握り、もう片方の手に開封ずみの封筒を握ってじりじりしながら待つ。せまい研究室のひとつしかない窓は開け放たれて、外では北方性の小柄な蝉がさびしげな声で鳴いていた。蛸足大学は研究室や講義室にクーラーを設置していない。そのかわり暖房設備が強化されている。
 九回目にしてようやく相手が出た。「ふぁい。まっつだきゆうりい」
「あっ松崎さん、小松崎です。ごめんね朝早くから」じつはちっとも早くない。もう十一時だ。
 受話器のむこうはしばらくうにゃうにゃいっていた。どうやら、テレビ電話はぜったい実用化しない、するわけがない、自動車が空を飛ばないことと同じくらい確実だ、という内容らしかった。そののち、ようやくまともな声で。「それで、なに。なんの用」
「急用です。たいへんなんです」小松崎は右手の封筒を握りしめた。「さっき『数理と進化』誌から連絡が。査読を通りました。受理です(*12)。『ぶぶ漬け』はただちに掲載されます」
「えっ。嘘」
「ほんとうです。ぼくが嘘ついてどうするんです」修正指示がいっさいないのは代書屋の仕事がかんぺきすぎるせいか、それとも。
「いったいどうしてあんな、ふざけた内容のものが」相手の声はあきらかにうろたえていた。「タイトルからしてありえんくらいぶっ飛んでるのに。それから著者の所属。比較民族文化研究所と情報数理生命科学研究所、どっちも架空の施設だよ。こんなの調べればすぐわかるのに」
「チェックしてないんでしょうね」小松崎はため息をひとつついた。「頭から信じこんでるんでしょう、こんなところをごまかすはずがないって」
「かけんひ課題番号もでたらめだよ。いちばん上の桁が9なんて変だ、って、どうして気づかないかな」
「ううん。そこはむずかしいかと」
「それと文献。SF小説や美食エッセイがまじってるし、わたしや小松崎名義の論文なんて題名だけのでっちあげだし」
「Axelrod や Nash の有名な論文が入っていたから安心して、ほかについては疑いもしなかったんでしょう。あるいは文献のところまでたどりついてないとか」引用文献(*13)一覧は論文の末尾に置かれる。
 しばし無音の空気が流れた。
「松崎さん」小松崎が口を開く。「やはり、事態は思っていたよりずっと深刻なようです」
 学術研究の世界には自浄能力があるはずだった。査読作業に代表されるように、研究者たちがたがいにまちがいを正しあうチェックシステムが働いているはずだった、これまでは。
 だがこれからは、頼みの自己修正システムは崩壊していくのかもしれない。大きくいえば、研究者性善説が成り立たなくなっていくのかも。そしてその変化はすでにはじまっているのかも。
「この実験は、是が非でも完遂せねばなりません。たとえとちゅうでどんな妨害があろうとも」
「えっ。あるの、妨害なんて」松崎がとぼけた声で問いを発する。
「ことばの綾です。研究活動への物理的妨害があるわけないでしょう、現代の民主主義国家なんですから。妨げがあるとしたら、研究費の枯渇」
「ああ。かけんひのあるかぎり、ってやつか」
「そうです」かけんひのあるかぎり、とは研究者たちの常套句である。研究に私費を投入することをいましめてもいる。そんなことをはじめたら生活がたちまち破綻してしまうからだ。「やりましょう。かけんひのあるかぎり」
「はい、はい。やろうね」相手はあきらかにおもしろがっている口調である。「かけんひのあるかぎり、ね」
 だが、学術研究に割りあてられる予算額は年々減少傾向にあるのだった。


*12 査読の結果 つぎの四種類。1、受理 accept 修正なしでそのまま載せてもらえる。めったに起こらない現象で、しばしば高額宝くじ当選にたとえられる。シャンパンをあけるレベル。2、小修正ののち掲載 minor revision 査読者からのコメントにしたがい少々の修正をほどこせば掲載可。けっこうありがたい結果。生ビールを飲みにいくレベル。3、大修正ののち掲載 major revision 掲載されるにはデータの追加など大規模な修正が必要。たいへんな作業になるがここであきらめてはならない。飲み食いせずただちに仕事にかかるレベル。4、掲載拒否 reject どうがんばってもぜったい載せてもらえない。もちろんいちばん気落ちする。失恋したときのがっかり感と同レベル、と表現しているのは酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(二〇〇二)。言い得て妙。
*13 引用文献 references 論文中で他人や自分の過去研究について言及したばあい、その典拠はあきらかにせねばならない。多くは論文ないし書籍から。引用文献一覧は投稿される論文においてもっともまちがいが多発する箇所で、掲載号やページ数や著者名の綴りはしばしば正確でない。雑誌によって文献記載のフォーマットがばらばらなのもミスを誘発している。

(第一章 了)

新刊プレゼント企画はじめました。

松崎有理の新刊をプレゼント

かってにまんが連載はじめました。


学術雑誌『化石』2017年9月号より広告まんが掲載開始しました。
広告左隅の応募券を送ってくださったかたに先着順で『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』または『5まで数える』(筑摩書房)をプレゼントいたします。どちらがあたるかはおまかせですが、もしご希望があればできるかぎりお応えします。

 

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これが松崎謹製「まわしよみ推奨しおり」だ(出演はマダコさんとダンボオクトパスくん)


おまけとして、もれなく「まわしよみ推奨しおり」もおつけいたします。松崎の本はどれでも、まわしよみ大推奨です。ご友人、ご同僚にどんどん貸し出してくださいませ。
印刷用データもつくりました。以下からダウンロードしてご自由にお使いください。ただし、松崎以外の著者の作品に使ってはいけません。
まわしよみ推奨しおり(PDF)

書誌情報・カバー・帯・もくじ公開します。

書誌情報
タイトル:『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』
発行日:2017年10月20日 初版1刷発行
発行所:光文社
定価:1600円+税
ISBN:978-4-334-91189-8

なお、電子版は追って発売いたします。

『架空論文投稿計画』表紙

カバー画像は、深海生物「ダンボオクトパス」。蛸つながりです。


『架空論文投稿計画』帯

は、担当編集者渾身の力作。サングラスと、「ボツにしろ!」っていうコピーが光ってます。作中でだれもそんなこといってないんですけど、それでも内容を端的にあらわしています。


以下のリンクはもくじのPDF。本書をなにからなにまでデザインしてくれた宗利淳一さんが、かわいらしく仕上げてくださいました。
kakuu-mokuji

どんな本なのかてっとりばやく知りたいかたへ

「だから、この本いったいどんな本なのよ。手短に説明して」という気分になったあなたへ。
松崎自身による紹介文をどうぞ。754字ぽっきりですよ。


「するめのような本をめざしました」

 ここ数年、学術論文捏造など研究不正の話題が目立ちました。研究の世界にこれほど一般のひとから関心がよせられるのはめずらしく、でも理由が理由なだけに、かつてその世界に片足をつっこんでいた者としては複雑な気分です。ノーベル賞やイグノーベル賞の受賞ニュースであればすなおに喜べるのですけれど。
 本書の主人公は研究者心理を研究しています。研究不正の実情を探るため、わざと虚偽の論文を書いて学術雑誌に投稿してみる実験を計画しました。本書ではその顛末を小説として縦組で表現しつつ、主人公が投稿した嘘論文十一本ぜんぶを横組で挿入しています。
 論文部分はいかにもほんものの論文らしく細部までリアルにつくりこみ、かつ笑えるエンタメとなるよう工夫しました。たとえば一本めの架空論文のタイトルは「島弧西部古都市において特異的にみられる奇習“繰り返し『ぶぶ漬けいかがどす』ゲーム“は戦略的行動か?――解析およびその意義の検証」です。いっぽう論文投稿実験の進行を語る小説部分はスリリングなサスペンス。主人公の行く手をはばむ謎の組織・論文警察やその黒幕、論文の代筆を高額で請け負う業者、敵か味方かわからない黒衣の超美人ハーフ研究者など、ふつうに研究しているだけならまず遭遇しないであろう濃ゆいキャラたちがこれでもかと登場します。
 読者のみなさまには楽しみながら研究業界の雰囲気にひたっていただけるよう、業界専門用語にくわしい脚註をつけました。この註も架空論文も筆者が全力を傾注してつくっていますので、言及された書籍をあたったり、論文内にほどこされたしかけを探したりすれば、するめを噛むように長く味わえることでしょう。本書のコスパはひじょうによいと自負しております。休暇や長期出張のお供に、また入院したお友だちへのプレゼントに、ぜひどうぞ。

『小説宝石』(光文社)2017年11月号より、許可を得て転載しました。

PDF版もつくりました。印刷・配布は自由です。以下のリンクよりどうぞ:
『架空論文投稿計画』著者による紹介

現役研究者からご感想をいただきました

ばりばり現役の研究者のかたが本書のご感想をメールで寄せてくださいました。ご本人の許可を得て公開いたします。(原文ママ、強調のみ松崎による)

先日、東京出張の帰りの新幹線の中で、ようやくご著書を読める機会を得まして、一気に読んでしまいました。
大変面白かったです!

研究の世界に少しでも関わったことがある人は、「あーあるある」と思い当たることがあったり、分野によって異なる状況に気づいたり、つい先日〆切だった「かけんひ」申請など、身につまされたりする部分もあったり、いろいろな面から面白く読めるのではないかと思いました。

とはいえ、私は、ただただニヤニヤしながら読んでいたのですが。
また、架空論文は、作ってみたくなる誘惑に駆られますね。あと、個人的には、黒野先生がツボでした。

堀井 美里 さま 博士(文学)、日本近世史
合同会社AMANE
金沢大学資料館客員研究員
一般社団法人学術資源リポジトリ協議会理事
加賀藩研究ネットワーク事務局

 

*************
表紙のふしぎかわいい生物、ダンボオクトパスについて知りたいかたはつぎの記事をどうぞ。「ダンボオクトパスとは?『架空論文投稿計画』表紙の深海生物

研究の世界に興味を持っていただけましたか。
拙著、代書屋シリーズでも学術論文執筆の舞台裏をおもしろおかしく楽しめますよ。
『代書屋ミクラ』(短編集)
『代書屋ミクラ すごろく巡礼』(長編)

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嘘の論文、いっぱい書いてみました。

『架空論文投稿計画』カバー
『架空論文投稿計画 あらゆる意味で
でっちあげられた数章』

出版社 光文社
発売日 2017/10/20
単行本、四六判
定価 1600円(税別)
デザインと装丁 宗利淳一
第一章と「ぶぶ漬け」論文まるごと試し読み
●七冊目の単行本は破天荒な変化球。まるで『鼻行類』のようにリアルでおかしな嘘論文が11本も入っています。でも、論文集ではなく小説です。これらのへんな論文は、ひとりの勇気ある研究者が研究不正の実態をあばくため計画した「架空論文投稿実験」用にわざと嘘っぽく書いたものなのです。たとえばそのタイトルは、
「島弧西部古都市において特異的にみられる奇習“繰り返し『ぶぶ漬けいかがどす』ゲーム”は戦略的行動か?」
「経済学者は猫よりも合理的なのか?」
「図書館所蔵の推理小説に“犯人こいつ”と書きこむひとはどんなひとか」
「おやじギャグの社会行動学的意義・その数理解析」
「比較生物学から導かれる無毛と長寿との関係――はげは長生き?」
などなど。タイトルからしておかしいのに、投稿された論文にだれもダメだししてくれません。そんな実験を続けるうち、研究者に妨害の魔の手が。謎の組織・論文警察やその黒幕の正体は。そして主人公に接近する黒衣の超美人ハーフ研究者は敵か味方か。「代書屋」シリーズでおなじみ、敏腕代筆業者のトキトーさんも登場します。
学術業界(架空)裏話にひたっていただくため、専門用語にはていねいに註をつけました。巻末にはショートショートのおまけつき。コスパには自信があります。するめを噛むように味わっていただけたら幸いです。
●もくじ、帯ほかくわしい情報は当サイト内架空論文特設ページよりごらんになれます。

松崎有理のほかの著作については、作品一覧ページをごらんください。

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