『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』(角川文庫)特設ページ

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『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』(角川文庫)カバー

作成日:2018/03/01 最終更新日:2018/04/06 かいたひと:松崎有理

『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』(角川文庫)が2018/02/24に発売となりました。『就職相談員蛇足軒の生活と意見』(2014)の文庫化です。
このページでは、本書ご購入まえの検討材料となりそうなものを随時、あげてまいります。

【もくじ】
1,基本情報
2,表紙と帯のご紹介
3,第一話の試し読みと各話あらすじ
4,解説はなんと新井素子大先生だ
5,電子版とその特典について
6,単行本から文庫へ——ゲラ完全ペーパーレス化
7,著者インタビュー公開

1,基本情報

  • 出版社 角川書店
  • 発売日 2018/02/24(電子版も同時発売)
  • 文庫版、240ページ
  • 定価 640円(税別)

2,表紙と帯のご紹介

『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』表紙

表紙イラストはトミイマサコさん。デザインは単行本のときと同じ、坂詰佳苗さんです。


『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』帯

そしてこちらが帯。力強いです。トミイマサコさんが描いてくださった「いちゃぽん」(金魚の名前)や雀たちはこれで隠れてしまっているので、いったんはずしてご鑑賞ください。

雀ずきなかたはこちらもどうぞ:
わるすずめ——野鳥4コマまんが

3,第一話の試し読みと各話あらすじ

第一話「懇切、ていねい、秘密厳守」冒頭部分試し読み

#縦組でよみたいかたは角川書店の『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』ページへどうぞ。

 二十七歳、女、無職。
 じぶんを冷静に評価するってつらいものだな、とシーノは思う。
 もちろん無職なんかじゃないといいはることもできる。じぶんはこの春、蛸足大学理学研究科生物分類学分野で博士号をとり、いまはそこで研究員をしているのだと。
 だが、と彼女は肩を落とす。研究員とは名ばかりだ。だって無給なのだから。
 実質、無職と変わらない。
 ああ無職。いやな響きだ。世間さまから石を投げられ、うしろ指を差されるにじゅうぶんな肩書きだ。きちんと職を持ち納税しているひとたちからの架空の怒号がきこえる。社会のお荷物。無為徒食。ごくつぶし。税金泥棒。
 あああ。
 涙が流れそうになったので、あわてて無職を就職浪人ということばで置き換えてみる。刀のかわりに博士号取得免状を丸めて腰に差し、研究職を求めてきょうはこの街、あすはあの街。しかしあわれ、博士にたいする世間の風はつめたい。職はいつまでもみつからず、博士号もち浪人のさすらい旅はつづく。
 やっぱりみじめじゃないか。
 きりがないので頭を強く振って空想を追い払った。さあ、もう出なければ。
 ちいさな貸間で、彼女は黒い上下に着替える。黒いかばんには記入ずみの履歴書が入っている。せまい玄関で黒い靴を履く。服に皺がないか、糸くずがついていないかを確認する。ひどく薄い扉を開け、中央部がいやにくすんだ階段を下りる。
 架須賀町通の風景は学生だったときと同じだ。質屋や畳屋、郷土の駄菓子も扱う雑貨屋、理髪店や個人病院、彼女の住まいに似た古くてたよりない集合住宅、あたらしくて薄っぺらな個人住宅。通りのいっぽんむこうには似詩公園の桜の緑がのぞく。ここ北の街は梅雨に入る直前で、きょうもくやしいくらいさわやかな天気だ。朝の日差しが目を射る。涙がにじむ。
 シーノがむかうのは大学ではない。
 職安だ。

「やってみたい職種は、きまりましたか」
 いつもの相談員が机のむかい側からほほえみかけてきた。彼の歳はシーノとそう変わらない。ふちのないめがねは流行の型、てっぺんだけをふわっと逆立てた髪も流行の型。上衣はあくまで白い。清潔感があり、かつ役人臭の薄いやわらかな印象だ。
 シーノは抱えこんだかばんの角をぎゅっとにぎり、ただ首を左右に振った。机の両側にはついたてがあってとなりの席と仕切られている。
「そうですか」相談員はひとあたりのよい微笑を浮かべる。初回の面談で、彼はシーノの訥弁ぶりをほぼ瞬時に見抜き、以後は彼女があまりしゃべらずにすむよう進めてくれていた。きゅうな面接にそなえてつねに黒い上下を着用し履歴書を持ち歩くよう提案したのも彼だ。若いが有能なのである。「あせる必要はありません。職業を選ぶのはだいじな問題ですから、時間をかけて考えていきましょう。わたしたち職安相談員がいつでも、全力でお手伝いしますよ」
 うなずいて、右側のついたての貼紙に目をやる。貼紙はこううたう。職安憲章。懇切、ていねい、秘密厳守。
 だが、あせらねばならないのはわかっていた。二十七歳にもなってなんの職歴もなく、持っている資格免許のたぐいは博士号という、およそ一般企業に縁のないもののみ。しかも女。そしてこの訥弁。
 不利な条件がそろいすぎている。
「前回やっていただいた適性検査ですけど」相談員は机の下から数枚の紙をとりだし、目の前に広げた。
 性格診断と職業興味診断を組み合わせた検査だった。結果。社会性と協調性は最低。論理性と審美性が突出。診断。孤独な仕事むき。具体的には芸術家、研究者など。
 とてもよくあたっている、とシーノは思う。
「やっぱり、研究職志望なんですよね」若い相談員は彼女の表情を読みつつ話をすすめる。なぜそんな魔法の技がつかえるのか。
「しかし。前回も申しあげましたとおり、企業さまが研究職として採用するのは修士課程卒業見込者です。正直なところ、企業さまの採用担当者さまはみな、博士号取得者は専門性が高すぎて、とおっしゃいます」
 専門性が高すぎるとは、つかえない、の婉曲表現である。
 シーノのばあい、そういわれてもしかたがない。なにせ彼女の専門は、ホラホラ属というきわめてめずらしい生物群の分類だ。特徴によって分け、種名をつけ、記載する。これほど特殊な専門性を企業の研究所でどうやって活かせというのか。
 相手はシーノの顔をのぞきこむ。「大学での職は、どうしてもみつからないんでしょうか」
 悲しみをこめてうなずいた。有給研究員の席に自力ですべりこめるようなら、いまこの職安の椅子に座ってはいない。
 研究職以外の職種をおすすめしますよ、と、相談員はきょうも同じ助言でしめくくった。

 十年前のことだ。
 政府は例によって急に、なんの脈絡もなく、科学技術力の底上げが必要だと痛感した。そして例によって短絡的に、博士号取得者を大幅に増やせばよいと結論した。
 博士増員十万人計画。
 そんなむちゃな法律があっさり制定された。粗製濫造された博士たちに研究者としての需要、すなわち就職先があるのかというだいじなことはまったく考慮されずに。しかも当時は、世界金融危機に端を発した第二次就職氷河期の終結がみえない時期でもあったのに。案の定、十年たったいまも若者の就職難はつづいている。
 シーノもこの法律の犠牲者だった。
 だから役人はきらいだ。シーノは職安相談員の柔和な微笑をながめてため息をつく。彼個人に罪はないが、それでもきらいだ。
 かれらには職があるじゃないか。だからそんなふうに笑っていられるんだ。
「またきてくださいね。お待ちしております」相談員は席を立ち、ふかぶかと頭をさげる。たしかに懇切ていねいだ。だがその態度は、定年まで保障されたたしかな身分があるという余裕に裏打ちされている。
 余裕なんかない。わたし余裕なんてない。
 ああ役人だいきらいだ。こんな苦労をするのもみんな役人たちのせいなんだ。
 職安の建物を出る。まだ正午にもなっていなかった。きょうやるべきことがもう終わってしまったせいで憂鬱を感じた。残りの時間をどうつかうか、有意義な案を思いつけないのでまた憂鬱が増す。初夏をむかえた蒼羽通はけやきの緑が皮肉なくらいまぶしく光っている。適度な湿気を含む空気の匂いは泣けてくるほどすがすがしい。シーノは鉄道駅に背をむけて、いつものように徒歩で自室まで帰る。交通費を節約したいからだ。
 黒い靴のかかとをかつかつ鳴らして、蒼羽通の広い舗道を歩く。じぶんが無能な粗製濫造博士たちの一員だとは思いたくない。しかしこの春、一部の同期たちのように各地の大学や研究所へ赴任できず、いまこうして職安通いをしている現実が、じぶんの研究者としての才能のなさを証明している。いや才覚というべきか。研究者には研究者なりの協調性や社会性が要求される。とくに所属研究室の教官たちと親密になっておくのは重要だ。博士号取得後の就職先を探し、紹介状を書いてくれるのはかれらなのだから。
 じぶんは配慮に欠けていた。準備を怠った。
 しかし後悔しても遅い。
 足を止めた。通りに面した百貨店の巨大な硝子扉にじぶんの姿が映っている。身をつつむ黒い上下は借りてきた他人の服のようだ。学生時代、こんな服を着るのは学会発表のときくらいだった。染めていない髪はあごの下くらいの長さ、化粧気はない。化粧はじぶんが別人になってしまうようできらいだった。そもそも理学部に通う数すくない女の子たちはみな、化粧などしていなかった。
 いまじぶんは悲しげな目をしている。置き去りにされた子犬のような。だめだ、こんな顔では就職活動なんてうまくいくわけがない。
 頭をひとつ振る。勢いだけはよく、ふたたび舗道を歩き出す。かつんかつんかつんかつん。靴のかかとが鳴る。こんな靴だってこれまでめったに履かなかった。
 思えば多忙な学生時代だった。かかとのある靴を履いて親しい男の子と腕を組み壱番丁を歩く、なんていちどたりともしたことがない。
 あのころは忙しかったからさびしいとは思わなかった。でもいまは。
 から元気をむりやり出しつつ大きな交差点で右折し、似詩公園通を北上する。桜並木のあいだに花見だんごで有名な言語茶屋の赤い屋根がみえたり隠れたりする。毎年春、まだ肌寒い夜に、あのあたりで場所とりをして無邪気に花見をしたことを思い出す。研究にあけくれるまいにちの、ひとときの娯楽だ。そんなに昔のことじゃないのに。
 でもあの日々は戻ってこない。だってわたしもう学生じゃない。奨学金はもうもらえない、むしろ返済せねばならない。
 これからはじぶんで稼がなくては。
 かつんかつんかつんかつん。靴音だけは威勢がいい。似詩公園ではちいさな子供たちとその母親たちが原色の遊具で遊んでいる。どこまでも青い空の上の上の上、対流圏と成層圏の境目あたりでは鳶が数羽、ぴいいいいいい、と高く鳴いて円を描いている。いや厳密には円ではなく楕円か。まあなんだっていい。
 みなしあわせそうだ、じぶん以外は。
 から元気を維持するため顔だけはしっかりあげて舗道を歩きつづける。似詩公園もそのむかい側の商店も事務所も専門学校の建物も、街路樹のけやきや楓の一本一本も、すべてみなれた光景だ。この街にきて九年がたった。学部学生時代四年と大学院博士課程五年。つかのまの夏と幾月もつづく冬の、九回の繰り返し。
 長かったのか短かったのか。
 廣瀬通との交差点、そして上善寺通との交差点をすぎる。街の中心部から離れるにしたがい個人の住居の割合が増し、古くからの静かな住宅街に変わっていく。高い塀をめぐらせた品のある邸宅がつぎつぎ視界を通りすぎる。シーノの住む架須賀町通からほど近いのに、雰囲気のちがいは大きい。
 そんな塀のひとつに貼紙があった。
 こんなところに、めずらしい。思わず足を止めた。近寄ってながめれば、達筆の毛筆でこう書かれている。
  急募 秘書一名 無口なかた歓迎 委細面談 蛇足軒
 蛇足軒とはここの住人の名前、ということは知っていた。門の表札にこの名が彫りこまれているからだ。もっとも本名ではなく号なのだろう。建物の名を兼ねるのかもしれない。塀からは深い藍色の瓦屋根がのぞいており、こぢんまりした平屋とわかる。とはいえ、その主についてはよく知らなかった。なにかの家元だという話をきいたことがあるだけだ。
 家元の秘書か。ちょっとおもしろそうだ。研究職がみつかるまでの臨時の仕事には、いいかもしれない。それに。
 無口なかた歓迎。
 このひとことに強く惹かれた。わたし無口さならばだれにも負けない。
 シーノは塀にそって早足ですすみ、苔むしたちいさな門にたどりついて呼び鈴を押した。
 それがすべてのはじまりだった。

「家元制度というのは古代から存在していて、とくにいまから三百年ほど前が爛熟期だった。このころ、それこそあらゆる無形的な技術が家元をなのる対象となった。華道、茶道、香道あたりはよく知られてるよね。ほか書道や俳諧、唄、囲碁将棋、すこし変わったところでは算法がある。数学にいくつも流派があって試合や道場破りをやってたんだよ、剣術みたいに。料理も包丁道といって家元化した。さいしょは宮廷料理や儀式用途など高級で手間のかかるものにかぎられていたけど、しだいに大衆化してあらゆる料理が家元となり流派をつくったんだ。たとえば『大根料理秘伝ノ巻』や『鰯料理百珍書』なんて秘伝書が実在してた。そのほか、掃除術や洗濯術、はては居眠り術や薮蚊たたき術なんてものまで家元化してたね。もう家元百花繚乱状態。すべてのひとがなんらかの家元、あるいはその弟子、みたいな」
 なんてよくしゃべる男だろう。
 シーノはつやのある一枚板の長卓をはさんで、求人者をつくづくとながめていた。どうでもいいことをここまで長く話せる男をいままでにみたことがない。理学部の男たちはたいてい、シーノほどではないにせよ訥弁ぎみだった。用件だけを筋道だてて話し、よけいなことはいわない。
「まあ、当時はそれだけ平和だったってことだね。なにせ家元世界は趣味道楽の世界だから」そこでようやく、蛇足軒ことこの家の主はひと息ついて、卓上の盆に手を伸ばした。盆は箱型で、黒地にきらきらした金色の模様がいちめんに入っている。下部のちいさな引き出しを開け、わたあめか雲のようにもやもやと細いなにかをひとつまみとって豆くらいにゆるく丸めた。きせるの火皿に詰め、燐寸で火をつけたとき、ようやくシーノはそのもやもやが刻みたばこだと気づいた。蛇足軒は吸い口をくわえて浅く吸い、離してからゆっくり白い煙を吐いた。なんともしあわせそうな表情をしていた。嗜好品かくあれかし、といいたげだ。
 喫煙者をみるのもとてもめずらしい経験だった。健康推進法の名のもとに、大学構内はシーノが入学するずっと以前から全面禁煙となっていたし、街なかでも、公共および民間のあらゆる施設、飲食店、各種交通機関、路上でさえも、たばこの煙が徹底排除されてひさしかった。喫煙習慣はいまや絶滅寸前だ。
 シーノは分類屋の抜きがたい習性にしたがい、相手の外見上の特徴を整理していく。芥子色の着流し姿で痩身中背、まっすぐな髪は肩につくくらいの長さ。年齢は、不詳。白髪はないし目尻の皺は笑い皺のようだ。歳下ということはないだろうが、いくつ上かはまったくわからない。
 容姿は、そう悪くない。俳優みたい、はほめすぎか。では、喜劇俳優みたいな。それも一週間ほど絶食したあとの。
 やっぱりさほどよくもない。
 三服吸ったところで彼は竹製の灰入れに灰を落とし、きせるをたばこ盆に戻した。「それでね。うちがなんの家元かというと」
 そうそうそれがききたかった。ようやく面接らしくなってきたので安心し、卓上の履歴書と求人者の顔とを交互にみた。
 だがその安心はただちに裏切られた。
 相手の答えはこうだった。「嘘道だよ」
 え。嘘道。
 なにそれ。
「嘘というのは起源が古くてね。おそらく人類が言語を獲得した当初までさかのぼる」
 そこまでいって蛇足軒はきゅうにだまった。視線が上をむき、みるまに眼球は白目だけになった。そしていきなり卓につっぷした。額が固い一枚板にあたって不吉なにぶい音をたてた。
 ええっ。やだ。なに。どうしたの。
 失神。いや発作。なにかの病気。
 ほら、緊張病症候群ってあるじゃない。あれかもしれない。
 あるいは心臓発作。または脳溢血。
 救急車救急車きゅうきゅううううしゃ。
 シーノは驚きかつ動揺した。どうしよう。このまま彼が急死してしまったら。面接は、就職はちゃらになる。いやそれより、じぶんが殺人者だと疑われないだろうか。
 博士号取得済就職浪人、未知の毒を盛って家元を暗殺。
 そんな新聞の架空の見出しが頭のなかを野方図にかけめぐる。
 だが幸いなことに蛇足軒はすぐ上体を起こし、なにごともなかったように話を再開した。「でね。言語で真実を語ることを発明した人類は、ほどなく嘘も発明したんだよ。ほら神話にもあったでしょ、このへんの由来」
 シーノは背中にいやな感じの汗をかいていた。なんだったんだ、いまのは。
 それから蛇足軒は嘘つき神マサカの誕生とその運命についての長い長い物語を語った。彼いわくとても有名な神話だそうだが、あいにくシーノはまったくききおぼえがなかった。
 まあじぶんは真性理系なのだから文化人類学的話題にうとくてもしかたがない。そう思って求人者の話を神妙にきいた。
 マサカ神は植物の種から生まれた。りんごであるともさくらんぼであるともいわれるが、珈琲豆であるという説が有力だ。じつは双子だったのだが、出生直後にきょうだいで嘘つき勝負をし、勝ったほうが負けたほうを吸収した。このさいマサカ神の舌は二枚に増えた。世界に嘘が誕生した瞬間である。
 こうして完全体となったマサカ神はたった三日で成長し、成人の儀としてふしぎな老女の試練を受ける。彼女は臓物を切り刻む女、と呼ばれ、右手に血まみれの小刀を持っている。左手には太鼓をたずさえ、それを鳴らしつつじぶんの影と踊る。背中には大きな裂け目があってやせこけた金目鯛がのぞいている。金目鯛はときどき、ぴい、と鳴く。老女は基本的に無口で、ほんだわらの切れ端、とか変なうわごとしかいわない。口が横に伸びているせいで顔が縦より横に長い。じぶんの尻をなめることが、またじぶんの頬で脇腹を打つことができる。もし彼女をみて笑ってしまったら、たちまちとらえられ桶に入れられて小刀で解体され、食われてしまう。だがマサカ神は華麗かつこっけいな嘘で彼女を逆に笑わせ、この試練を突破する。なお、この嘘の内容を知ることは叶わない。寿命ある人間が耳にするとおかしさに耐えきれず笑い死にするため、神々によって永遠に封印されたからだ。
 成人したマサカ神はその縦横無尽な嘘で世界を混乱に陥れる。嘘の力でたつまきや大地震が起こり洪水が発生し地形すら変わる。
 事態を憂慮した神々はマサカ神の力を奪うことを計画する。マサカ神の弱点は異常にたまねぎがすきであることだった。神々が準備した山盛りたまねぎの罠にマサカ神はそれはそれはあっけなくはまる。
 神話はマサカ神の二枚の舌が両方とも抜かれ、かわりに真実を語る黄金の舌を移植されるところで終わっていた。
「と、以上の物語は約二千年前の木版印刷書『南海沿岸嘘伝上陸誌』に記録されてるんだ」
 へええ。シーノは歴史にもうとい自覚があるのでひきつづき神妙にきく。
 すると相手は片側の頬にへこみをつくって微笑した。「あ。信じた信じた」さらに、天井をむいて高い声で笑った。
 え。まさかいまの嘘。
「その古いふるうううい嘘道のなかでも、うちの流派は最古なんだよ」家元はここでひとつ咳払いし、真顔になった。「その名も百歩七嘘派といってね」
 百歩七嘘派。
 変な名前。
「百歩あるくうちに七つの嘘をつくべし、っていう掟があったんだよ発足当時は。違反すればもちろん破門。ま、いまはだいぶゆるくなったから、たんなる心がまえにすぎないけど」
 そこまでいうと蛇足軒はまたきゅうにだまった。さきほどとそっくり同じ症状で卓につっぷし、すこしのあいだそのままでいて、やはりなにごともなかったように顔をあげた。
「じゃあ。百歩七嘘派の歴史について話そうか」
 はい、おねがいします。シーノの背中を流れる汗はますますいやな感じになる。
 彼は話した。
 百歩七嘘派とは。いまから数千年前、西方のあたたかな内海に面した都市で勃興した論理数学的哲学集団を起源としている。同時期に栄えた犬儒学派とひじょうに仲が悪く、とくに塔上聖人の是非をめぐっては数百年にわたり泥仕合をつづけたといわれる。犬儒学派は、塔に登って何十年も祈りながら断食するなど芝居がかった売名行為にすぎない、ほんとうに苦行したいならじぶんたちのように鎖をつけて樽に入るべきだと主張し、たいする百歩七嘘派はこの聖人が塔の上でひたすら円周率を計算していることをなじった。かれらは円周率の桁数を伸ばすことより素数表をつくってほしかったらしい。つまり両者の議論はどこまでも平行線で、さいごはおのおのの長が公衆の面前で蛸を食べる競争をして雌雄を決したようだが、どちらが勝ったかは伝えられていない。
 犬儒学派や塔上聖人が実在したことくらいは歴史に弱いシーノでも知っていた。ならばこんどこそ実話だな、と、うなずきながら拝聴する。
 だが蛇足軒はシーノの顔をのぞきこみ、また頬にへこみをつくって笑った。「やった。信じた信じた」
 え。まさかこれも嘘。
 あごが落ちるほど口を開いて求人者をみた。その間に蛇足軒は履歴書をとりあげ、ひとりごとにじぶんであいづちをうちながら内容を確認した。「うん、いい学校出てるじゃない。うんうん、年齢は二十七歳ね。そっか、ぼくよりちょうど二十、下だ」
 ということは。このひと四十七歳。
 信じられない。いろんな意味で。
 だが相手はシーノの動揺など気にかけるようすもない。「ああ、いいねえ博士号かっこ理学かっことじ取得済」
 え。
「とてもいい。ここでの仕事にぴったりな資格だよ」
 博士号が。ほんとに。そんなこといわれたのはじめてだ。
 でも、なぜ。
 シーノは口だけでなく両目も大きく開いて相手をみる。
「だってさ」蛇足軒の目のまわりにうれしそうな笑い皺があらわれた。「理系の博士号もち、ってことは。ある仮説が真実かどうか疑い、検証することを徹底して訓練してきたわけでしょ。そんなひとですら引っかかる嘘を考えつけたら最高だよね」
 うん。まあ、そうかな。
 もっともじぶんの専門は理論系でも実験系でもなく希少生物ホラホラ属の分類だけど。
「それとね。そのまったくしゃべらないところ。それも、とてもいい」
 こんなこといわれたのもはじめてだ。
 たしかに塀の貼紙には書いてあったけど。無口なかた歓迎って。
 でも、なぜ。
「きみ理想的だ、うちの秘書として」求人者はふたつめの疑問にこたえないまま履歴書を卓上に戻した。「じゃ、採用。さっそく明日からきてもらえるかな」
 ええっ。なんてあっさり。
 あまりのきゅうな展開にシーノは驚きっぱなしだったが、それでもしっかりと承諾のうなずきを返していた。

 翌朝。
 指定された時間に家元の住まいをおとずれ、玄関を開ける。かってに入っていいからね、と、鍵は前日わたされていた。かろうじて靴を脱げる広さの三和土をあがり、面接につかった居間をのぞくが、一枚板の長卓のむこうに主の姿はなかった。
 シーノは居間をとっくりとながめた。きのうは室内を観察する余裕がなかったからだ。
 部屋は土壁で板張り天井だった。珪藻土かな檜かな、と建築関係のすくない知識をふりしぼって推測する。きのうの印象よりずっとせまい。じぶんの住む貸間よりせまいかもしれない。長卓の両端と壁とのあいだはひとがやっと通れるくらいだ。
 左手の壁には掛軸があった。書になど縁のないシーノにも読めるくらい癖のない毛筆文字はこううたっていた。ひとつの真実より五万個の嘘を。第二十三代蛇足軒、第二百十五代百歩七嘘派免許皆伝。花押。印。
 雇い主であるいまの蛇足軒はこの号をなのる三十三代目で、第二百二十五代の百歩七嘘派免許皆伝なのだという話はすでにきいていた。これも嘘かと思っていたが、どうやら真実のようだ。
 この掛軸が彼の創作物でなければ。
 右手の壁に近寄る。つくりつけの書架は収納力より装飾性を重視したのか三段しかない。最上段の数冊はそろいの装丁で、こんな表題だった。
 再発見された嘘いつわりの記録。
 その下に番号がついているからつづきものなのだろう。
 第一巻を手にとり、奥付をみる。出版は十年以上も前だった。巻末の著者紹介によると、松崎某というこの著者は蛸足大学理学部の出身でシーノの先輩にあたっていた。紹介文はこうつづく。あいつぐ締切により持病が悪化、早世。本作は遺作となっている。なお未完。
 かわいそう。
 でも、死ぬほど仕事がある状況ってうらやましいかも。
 本を棚に返して目をあげる。部屋の正面は大きな硝子戸になっていた。その先は縁側で庭に出られるようだ。硝子を通してみえる庭は手入れがゆきとどいており、造園の知識など皆無のシーノにもその美しさが理解できた。隣家との境界である塀に囲まれてせまかったが、子牛大の青石が置かれそばには松が配され、白い玉砂利が敷かれてちいさいながら池まであった。
 さて、みとれているばあいではない。雇い主を探さねば。
 玄関まで戻り、細い廊下を北へすすむ。廊下はほんの数歩で終わり、その先は台所だった。ひとがふたりも立てばいっぱいの手狭さで、予想外にこぎれいだ。たぶん、ろくにつかっていない。日々の食事は店屋物か。
 きびすを返して廊下を逆戻りする。居間をすぎると襖があった。家の外観から広さを見積もるに、おそらくこれがさいごの部屋だ。ということは、主はここにいるはず。
 意を決して襖を開いた。
 南むきの居室は、せまい居間のさらに半分ほどしかない。床に布団は敷かれていた。だが、かんじんの雇い主の姿はなかった。
 え。あれ。どういうこと。
 室内に踏み入る。隠れる場所などないはずだ、だがみわたせど主はいない。どこだ。どこにいる。
 視線が押入れにむいた。引き戸がはんぶん開いて、浴衣のすそとはだしの脚が二本のぞいていた。
 すねをなんどか強く叩くと、蛇足軒は日だまりでの昼寝をじゃまされた猫みたいな声をあげた。「ああああ。きたね。シーノさんだっけ」雇い主は押入れから苦労しいしい這い出してきた。細い体をむりやり折り曲げて入っていたようだ。
 シーノのあがった眉をみて、寝癖のついた髪をかきあげながら説明を加える。「あのね、ぼく寝相悪いの」眉がさがってこないのでさらにつけ加える。「ものすごく」
 はあ。
 寝相が悪いというより、もはや夢遊病の段階ではなかろうか。
「そうそう。きのうは仕事の内容について話してなかったね」彼は両腕をあげて大きなあくびをひとつしてからシーノを振り返った。「おいで。説明しよう」おっくうそうに立ちあがり、部屋から出ていく。
 シーノは子犬みたいに雇い主のあとを追った。
 家元秘書の仕事内容、か。
 きのう提示された時給は想定よりはるかに高かった。彼女のつつましい生活をじゅうぶん支え、かつ奨学金の返済まで可能な額だ。これほどの給与を保証されるのだからむずかしい仕事にちがいない。
 じぶんにできるだろうか。正直、事務作業には自信がない。
 寝室から居間につづくわずか数歩ぶんの廊下を進むあいだに、悪い想像が高下駄を履いて脳裏をかけめぐった。長い書類のなかの一字がまちがっているせいですべてつくりなおし。あるいは、帳簿のたった一円が合わないばかりに深夜まで残業。地下室につれていかれ、脚に鎖をつけられる。鎖の先にはお約束のように鉄球。もちろん夜食などあるはずもない。あんどんの明かりだけをたよりに泣きながら無骨な事務用電卓を叩きつづける。しかし、なんどやっても合わないものは合わない。そしてその場所でシーノは、生まれてすぐ引き離され、仮面をつけられて幽閉されていた双子の妹と邂逅する。
 もはや事務作業とはなんの関係もなくなったシーノの妄想になど気づくわけもなく、蛇足軒はすたすたと居間に入って硝子戸を開け放った。「秘書としてのいちばんだいじな仕事はね」外を指し示す。
「あれだよ」
 あれ。
 池。
 それが、なにか。
 蛇足軒は縁側に出て、つっかけを履くと庭に降りた。「ちょっと、ここにおいで」飛び石づたいに池の前まで行くと、シーノを振り返って手招きする。
 またしても子犬みたいに、雇い主のあとにつづく。
 ふたりはならんで池のふちにしゃがみこむ。光のぐあいか不純物のせいか、水は緑色にみえる。その水のなかで、赤く丸いものがゆっくり動いている。
 鯉。大きさからシーノはそう推測する。
「金魚だよ」
 えええええっ。

第二話以降のあらすじ

  • 第二話「かなしき食料難」今回の求職者は白皙の美青年。なんの悩みがあるのかふしぎですが、彼には重大な秘密があったのです。
  • 第三話「三秒の壁」求職者は、いかにもいけてないぽっちゃり女子。驚くようなある能力を持つものの、まったく生かし切れていません。もったいないです。それと、今回より家元のへんなライバルが登場します。
  • 第四話「人工の心」求職者はなんとロボット。しかもお掃除ロボットです。癒やし系です。じつはその名前は、アイザック・アシモフの作品からとってます。
  • 第五話「博士浪人どこへゆく」まさか、殺しちゃった? シーノは北の街を逃げだし、遠い都会で無一文となりホームレス生活を送ります。さて家元はどう出るのでしょうか。

4,解説はなんと新井素子大先生だ

新井先生の解説文は角川書店の文芸情報サイト「カドブン」で読むことができます。

「文庫解説は新井素子先生」と担当編集者さんから知らされたあと。うれしさのあまり自宅で「新井作品朗読まつり」をやりました。リズムがよいので声に出すとほんとうに楽しいですよ。みなさまもぜひお試しください。手はじめにはショートショートなどみじかいものがおすすめです。

5,電子版とその特典について

これってよく考えてみれば、電子版特典の存在を知らずに紙の本を買ってしまったひとが損しちゃうことになります。よって担当編集者さんに頼みこんで、以下の企画を実施しました:

2018/05/24まで受けつけております。本書を購入していなくても、フォロワーさんであれば応募できます。どうぞおきがるに。

6,単行本から文庫へ——ゲラ完全ペーパーレス化

上の画像のとおり、文庫のゲラはとにかく真っ赤になりました。その理由は:

  • 解説が新井素子先生ときまって緊張した
  • 単行本を出したときから四年。松崎も成長したらしく文章がひどくつたなくみえた。当時「もうかんぺき。直すとこなんてどこにもない」と思っていた自分を蹴り飛ばしたい

とんでもない朱の量になることが事前に予想されましたので、「きっと紙よりはデジタルで朱入れしたほうが楽にちがいない」と考えて本まるごと一冊ぶんのゲラのペーパーレス化に踏み切りました。その考えがいかに甘かったかは、以下の記事でくわしく紹介しています。
ゲラ作業を楽にしたい——ゲラ完全ペーパーレス化への長い道のり

著者インタビュー公開

角川書店の文芸情報サイト「カドブン」に著者インタビューが掲載されました。2018/04/06公開。新井素子先生の解説文へのリンクもありますよ。

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主人公は、理系女子。

『嘘つき就職相談員とヘンクツ理系女子』

出版社 角川書店
発売日 2018/02/24
文庫
定価 640円(税別)
表紙イラスト トミイマサコ
デザイン 坂詰佳苗
当サイト内に特設ページがあります。ご購入の参考にどうぞ。
冒頭部分たっぷり試し読み(角川書店のサイトへとびます)
●『就職相談員蛇足軒の生活と意見』(2014)の文庫化です。タイトルが変更されておりますのでご注意くださいませ。
●文庫化最大の目玉は、解説が新井素子大先生だというところ。もう松崎はここで死んでも悔いはないと思いましたよ。
●電子版も同価格で同時発売です。なお電子版には特典として短篇がまるまる一本ついてきますので、じつは紙版よりお得です。
もくじと作品概要
第一話「懇切、ていねい、秘密厳守」せっかく博士号をとったのに就職先がまったくない、理系女子シーノ。家元秘書というちょっと珍しいアルバイトをはじめたけれど、そこにはなんとも変わった求職者がやってきます ★試し読み
第二話「かなしき食糧難」今回の求職者は白皙の美青年。なんの悩みがあるのかふしぎですが、彼には重大な秘密があったのです
第三話「三秒の壁」求職者は、いかにもいけてないぽっちゃり女子。驚くようなある能力を持つものの、まったく生かし切れていません。もったいないです。それと、今回より家元のへんなライバルが登場します
第四話「人工の心」求職者はなんとロボット。しかもお掃除ロボットです。癒やし系です。もちろん名前はアイザック・アシモフの作品からとってます 
第五話「博士浪人どこへゆく」まさか、殺しちゃった? シーノは北の街を逃げだし、遠い都会で無一文となりホームレス生活を送ります。さて家元はどう出るのでしょうか

松崎有理のほかの著作については、作品一覧ページをごらんください。

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