作成日:2017/09/06 最終更新日:2017/09/16 かいたひと:松崎有理
北の街では長い雨期がはじまっていた。小雨のふる朝、美波町通の交差点で、ぼくは生まれてはじめて女の子から声をかけられた。だがその台詞はかなり奇妙なものだった。
「ひげ、そらせてくれませんか」
雨合羽姿で相棒の自転車、彗星号と信号待ちしていたぼくは相手をまじまじとみた。彼女の傘は透明だから雨でも姿がはっきりわかる。女性にしてはかなりの長身だ、男性標準身長のぼくと視線の高さがそう変わらない。顔のまわりの茶色い髪は、いっけん無雑作なようで綿密に計算されたはねかたをしている。白い上衣をきて、腰から革製の道具入れをさげていた。彼女の背後に、ゆっくり回転する白と赤と青のしまもようがみえた。硝子扉には開店および閉店の時刻と、そして店名が白い文字で書かれている。アルマ。
信号が変わる。自動車たちがいっせいに美波町通の二車線道路を走り出す。アルマという名前の間口のせまい理容室と、その前に立つ背の高い女の子だけが、ぼくの視界のなかで色がついている。ほかはぜんぶ灰色の濃淡だ。
すぐそばを車両がかすめ、足元に水しぶきがかかる。それでもぼくは動くことができない。
「わたし、かけだし理容師なんです。練習させてください、もちろんお代はいりません」相手ははにかむように笑った。頬はさくらんぼみたいな色をしていた。「もし時間があるなら」
「いいですよ。めずらしく早起きしたんで」ぼくは彗星号のむきを変えた。これから研究地区で営業するつもりだったが、急ぐこともない。
たとえ急いでいたとしても、彼女の頼みに応じたことだろう。
***
あの出会いから数日たった朝、ぼくの眠りは電話の音でやぶられる。
「よろこべ、ミクラ。また依頼をまわしてやるぞ」相手はやはりトキトーさんだ。
ありがとうございます、とまだよく動かない口でいい、薄い布団から身を起こす。目をこすって八萬町の古い部屋の大きな窓をみた。今朝も雨は南むきの硝子窓を飽きもせずにせっせと叩き、流れ落ちる水が長い縦筋をえがいていた。
暗いな。これじゃあ窓に覆いがあろうがなかろうが、早起きなんてできやしない。
「場所は生命研。研究地区のいちばん西側だ、知ってるな」電話の声はつづく。「今日の昼にきてほしいそうだ。行けるか。行けるな。行け」
「はい、行けます。行きますとも」
代書屋となってまだふた月、自力で営業してもうまくいかないことが多い。だから先達のトキトーさんが仕事をふってくれるのはとても助かる。彼としても、この春からぼくを代書屋稼業にひきこんだ手前、多少の義務感はあるのだろう。
おかげですでに数件の依頼をこなし、物価の安いこの街でなんとか生きていけるくらいの収入は得ている。これで貯金もできればいうことはない、のだが。
トキトーさん経由の仕事には、たいていなにか問題がある。
教えられた研究室と依頼人の名前を復唱し、もういちど礼をいってから受話器を置いた。大きなあくびをひとつして布団から這い出ると、窓ぎわに寄って手のひらに乗るほどの陶器の植木鉢に顔を近づけた。
「ねえ、依頼だよ。生命科学研究所の数理進化生物学研究室からだって」
親指くらいしかない緑色のさぼてんはもちろん返事などしない。
「なんだろうね、生命研」かまわず話しつづける。「あれができた経緯って、ぼくもよくわかんないんだ。たぶん大学院重点化政策のせいなんだろうけど」
さいきん科学関係の諸政策は暴走ぎみだ。ぼくが卒業し、いまは代書屋の営業範囲としているこの古い蛸足型の総合大学も、かずかずのむちゃな法律にふりまわされている。
もっとも悪しき一例が、通称出すか出されるか法だ。
しかし、この悪法のおかげで代書屋の仕事がなりたっている面もある。ぼくがあしざまにはいえない。
さぼてんの白いとげをつついてみた。指先にかすかな、しかしたしかな痛みが伝わってくる。
永遠のともだち。
立ちあがり、寝間着姿のまま北側のせまい台所にむかう。珈琲を淹れるために湯をわかしながら、目を閉じてぼくの脳内神であるアカラさまに感謝の祈りをささげた。
アカラさまは祈りと唄がすきで、本体は遠い南の島にすんでいる。こんな設定を追加しつつ四歳のときから信仰しているこの神は、赤い面をかぶった顔をなんどもうなずかせ、長い前髪をゆらしていた。
なお、アカラさまの後頭部にはまったく毛がない。なぜこんな容姿になったのかはおぼえていなかった。なにせずっと以前のことだから。
「いらっしゃい、代書屋さん。ミクラさん、でしたね」
指定された研究室でぼくを出迎えた依頼人は、すっきり背の高い色白細面の、まず美男子といえる容貌をしていた。歳のころはたぶん三十代前半だ。
「せいいっぱいやらせていただきます。よろしくおねがいします」相手の顔をしっかりみつめる。視線を合わせるのは対人商売の基本、とはトキトーさんの言だ。
だが彼はとまどった少年みたいに目をふせた。
「あなた、いま。なんでこのひと若いくせにこんなにはげてるんだ、と思ったでしょう」